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2025年8月31日日曜日

大丈夫なんでしょうか

 不祥事が起き、その対応を議会や世間が求める。教育委員会は、その圧力を現場にかけ続ける。毎度おなじみの光景が繰り広げられるわけです。基本的に、不祥事は個人の問題なはず。それが、組織の問題だとする意見が罷り通るわけです。これって、おかしいなと思います。個人の犯罪を、組織に原因があるんだからどうにかしろと発言する人たち。それを真に受けて何とか対応しようと頑張ってしまう。現場は、直接的原因でもないのに、責任があるように言われ、委縮するわけです。

さらに、いじめ対策が必要だと言われる。確かにいじめはあってはいけないと思います。つらい思いを子供にさせるのは断じて許されません。その対応は、十分にとるべきであるというのは正論だと思います。しかし、学校は、教室の中は、小さな社会でもあります。その中ですべてのトラブルをなくすことはできません。また、無くすべきではないのだと思います。子ども達は、小さな社会の中で、うまくいかなことや仲良くできないことなど、様々な場面にぶつかて行きます。その経験がとても大切なのだと思います。昔担任をしているとき、子どもに言われたことがあります。「みんな同じようにはできないでしょ。普通の友達と、特別な友達がいていいわけだから。」子ども達も、経験を積むことにより、いろいろな場面でどうすればよいかを学んでいくのだと思います。しかし、今はそういう経験よりも、トラブルを起こさないことが重視されるようになっていると思います。極端な言い方かもしれませんが、自分のパーソナルスペースに他の人がいることが問題になってしまうのではないでしょうか。1mの範囲に誰も入らない。誰も話しかけないような状況が望まれしまいそうな感じがします。

採用試験の倍率は下がり、必要な先生を補充することもできず、人員不足が4月から続いている学校もあります。その対応も教育委員会はできていません。もう、これは、教育委員会という組織の対応力を超えているわけです。

こんな状態で、学校は大丈夫なのでしょうか。対応が可能な状況にあるのでしょうか。夏休みが終わり、子ども達が学校に戻ってきています。

学校が正常な状況になるように、教育委員会も、文科省も、マスコミも考えてほしいと思います。

2025年8月28日木曜日

不祥事ねぇ

不祥事は、無くならないんですかね。

1年間に何回かは報道されます。実際に起きた自治体では大騒ぎになります。そうですよね。信頼すべき存在が子どもがらみの犯罪を起こしちゃうわけですから。その辺は、本当に困ってしまいます。

では、実際問題、どうしたらこういう事態を防ぐことができるのでしょう。これも、決め手はないですよね。いろいろ言われて、いろいろやっているわけですが、やっぱり無くならないわけです。今は、どのような場面でも、いつも手に持っているスマホで撮影することができてしまいます。ですから、誰でも、いつでも、写真やビデオをとれるという条件ができてしまっています。

性的な嗜好性も多様化しています。性的な対象がどこにあるのかなど、個人の中にあることですから、誰も理解することはできないわけです。自分の中にある性的な問題を、他人の強制によって変化させることはできないような気がします。だからといって、何をしてもよいのかということは別です。子ども達が安心て過ごすための条件としては、やはり信頼できる関係を先生と子ども達の間に作らなければなりません。それは、当然のことです。

やっちゃう人は、性的な衝動を抑えることができないのでしょうね。罪の意識も薄いのだと思います。性的な興奮が罪の意識を超えてしまうから起こるのでしょう。だからといって、それを認めることはできません。個人としての問題ですから、まず、個人の中で解決しなければならないのだと思います。もちろん、他者に被害を与えるようなことはしないということは、もちろんのことです。

不祥事を起こさないための様々な取り組みは、一定の効果はあるかもしれませんが、決定打にはならないような気がします。根本が個人的な問題なのですから、それぞれが、自分の性的嗜好と向き合わなければいけないのではないでしょうか。あまりに盗撮などは稚拙で卑劣な行為だと思います。もっと、自分との折り合いをつける方法を考えるべきです。

2025年8月24日日曜日

新人の質

 新採用の先生の質の話。でも、質がよいとか、悪いとかは言えないと思います。それぞれの経験で、新採用の先生を評価したがるのですが、その時代によって、求められていることも、できることも異なっていると思から、よい、悪いの評価はできないと思います。

ただ、演技であってもよいのですが、必要な話を聞けるかどうかは、どの時代でも必要なことだと思います。もちろん、いろいろな人が、「こうした方がいい。」とか「ああした方がいい」とか言ってくるわけで、すべてを聞いて、実行することは絶対に不可能です。ですから、話を機姿勢をもちちつつも、その中から、自分に必要なものは何なのかを考える能力は必要だと思います。実際、いろいろといわれすぎ、どうすればよいか分からなくなって、悩んでいる若手を見たこともあります。丁寧に、親切に接してくれるけど、それがつらい部分でもあると話す若手もいました。

同じ学年を組むと、最低でも1年間は、密接に付き合わなければいけません。そこは避けることができないし、避けていてはいけない部分です。ですから、そこの人間関係を維持できること、うまく仕事を教えてもらえることがまず必要な能力だと言えるでしょう。

もちろん、新採用の先生の中には、とてもセンスが良い人もいます。そういう人も何人もいました。自分でどんどん仕事を進めていく能力があるわけです。

それよりも、まず新採用の先生ができることを考え、それを推し進めていけるように、周囲が考えてあげることが大切だと思います。子ども達にとって、何十年も先生をやっている人であろと、新採用の先生であろうと、関係はありません。1年間は、その先生と過ごさなければならないわけですから。

新採用の先生の質がどうなのかと聞かれると低下しているという回答が多いかもしれません。これだけ、継続的に大量採用が続くと、中には、あまり定積がないと感じる人も出てくると思います。それをもって、質の低下ということを言うのは間違っていると思います。また、どのような新人であっても、やっていけるように、力を貸してあげることが大切だと思います。

2025年8月23日土曜日

退職教員が働くのだろうか?

 退職教員を当てにして、一時的な欠員などを補充していくという案があると、書かれていますが、本気なのでしょうか。第一に、ここまで欠員が出た状態になっているのは、退職教員の協力が得られていないからだと思います。実際、臨任の代替を非常勤で埋めることも教育委員会は認めているわけです。特に、戦力になるはずの途中退職をした教員が非常勤をやってくれるのかというと、かなり難しい気がします。退職年齢も実質的に65歳に引き上げらえています。ということは、定年退職をした教員が非常勤講師をやるとすると、65歳以上ということになります。これも問題だと思います。小学生を相手にするのに、おじいちゃん、おばあちゃんが出てくるのもね。まあ、それだけでなく、年金受給資格を得た人たちのモティベーションは、どこにあるのでしょうか。給与という形で、それなりの金額が支給されていれば、それ自体がモティベーションになるとは思います。しかし、65を過ぎて、非除菌講師として支給される給与に魅力を感じるのかが疑問です。

この様なアイディアを出している人たちは、幻想を抱いているのではないでしょうか。「やりがい」がある仕事だから、やってくれるという人がたくさんいるはずだと。確かに、80歳を過ぎた人が非常勤講師をやっているのも知っています。実際、80を過ぎた人を非常勤講師として雇用したことがあります。

でも、年齢的に、あまりにも子供とかけ離れた感覚になるのはやむを得ないと思います。もう一つ。質的な担保ができないのではないかと心配します。僕は、教える立場を離れてから15年たっています。それ以上教える立場から離れている人も多くいると思います。また、全く教えるという経験のないペーパー先生もいると思います。どちらにしろ、質的な担保がない状況でやってもらうことになります。

今の教員不測の現状を見ると、積極的に働く意思を持っている人が少ない気がすること。教えるということについてどの程度力がある人を集めることができのかが不明なこと。「やりがい」だけを前面に出しても、仕事として成り立たなくてはいけないはずです。そこまで考えて、これらの提案がされているのか、知りたいものです。

2025年8月21日木曜日

教員の守備範囲はどこまで

 どんなスポーツであれ、企業であれ、それぞれが責任を持つ範囲は決まっています。

学級担任制は、学級に関すること、学級に在籍する子供に関すること、それらに対して、すべて責任を持つことにした制度でした。そして、文科省は、それを良いことに、次々施策を打ち出し、すべてを担任に任せてきたわけです。もちろん直接ではありません。文科省は、教育委員会に圧力をかければよいのです。そして、その圧力は、今度は各学校の校長にかけられ、校長は受けた圧力をそのまま担任にかけてくるという構図が出来上がります。まあ、新しく考えたことでも、圧力をかけるだけで達成させてきた担任がいるわけですから、いくらでも考えていいわけです。日本の先生たちがとても優秀で、金をかけなくても、数字を上げろと言えば上げ、授業時数を増やせと言えば増やし、発達障害に対応しろといえば対応し、保護者のご機嫌をとれと言えばとってきたわけです。当然、こんなやり方は破綻します。先生達からの指摘ではなく、まず第一に学生たちにそっぽを向かれたことがこの破綻の始まりでしょう。

要するに、学級担任の守備範囲なんてないわけです。野球でいえば、ピッチャー一人ですべてをカバーする状態だと言えばいいのでしょうか。

僕は、幸い40年以上学校にいましたが、保護者からのクレームを受けたことがありませんでした。これも、昔だったからでしょうか。僕が教員になったのは1982年です。校長としても、校長室で保護者と対応するような場面はありませんでした。これって、ついていただけかもしれません。まあ、これについては、詳しく書いた方が分かってもらえるでしょうから、後日書きます。

じゃあ、学級担任制をやめてしまうのかというのも、短絡的な気がします。まず、副担任を置くようにするなど、工夫をする方がよいと思います。副担任をすべてのクラスに置くことは急には無理ですから、2クラスに1名の副担任でもよいと思います。そのうえで、教科担任制を広げていくことが、一番確実な方法だと思います。もちろん、そのための人件費は膨大にかかるでしょうが、今まで人件費を抑えてきたわけですから、お金を引き出す努力を文科省はすべきです。副担任を置くことでだいぶ担任の守備範囲は狭くなると思います。常に、相談できる人がいる、常に、一緒に業務を進める人がいることは心の安定にも、時間の節約にもなると思います。

2025年8月20日水曜日

働き方改革で、何か変わるんだろうか。

 まず、1学級の人数です。僕が先生になった時は、1学級45人が上限でした。ですから、この当時は40人のクラスを持てれば、ラッキーだったような気がします。実際、46人のクラスを担任したこともありますが、いったいどうしていたんだろうと、今になってみると驚くような人数です。これが、40人学級になり、35人学級にようやくなったわけです。僕は、担任したクラスで20人台ということもありました。それも、低学年でです。この時は、本当に楽しい時間を過ごすことができたような気がします。

人数だけではありません。僕は1学年、5クラス、4クラス、3クラス、2クラス、1クラスの5筒のパターンを経験しています。なぜか、初任の時以外は、その当時としては、小さい規模の学校にばかり配属させられていたので、単級まで、経験することができました。一番楽だったのは、僕は単級だった気がします。子ども達は1年生から同じクラスで過ごしていますから、よくわかりあっていました。できるところや、よいところ。ダメなところや苦手なところ。お互いが分かり合い、認め合うことを進めていけば、それだけでクラスは安定していきます。意外と難しいと感じたのは2クラスの場合です。2クラスってお互いがどうしても比較しやすいところがあります。隣よりという気持ちが、教師にも、子どもにも生まれやすいものです。2人の担任で仲が悪い時もありますし。そうなってくるとよけい子ども達も自分のクラスが上だと主張したくなるようです。競争状態に入ってくれれば、それは、それで使いようがありますのでよいのですが、難しいと思うこともありました。子ども達にとっては、やはり3クラス以上の状態が適切な気がします。

働き方改革と1クラスの上限の人数や学校における学級数は別物だと思いましが、今では、こういうことも働き方改革の工夫として挙げられているようです。でも、働き方改革は違った観点で見るべきだと思います。まず必要なのは、時間に対する意識です。自分たちが時間を切り売りしていることを先生たちが自覚すべきです。そして、時間が無制限でないことも。また、仕事だけをすることをよしとしないことだと思います。趣味だって持つべきでしょうし、楽しみをもって生きるとこも大切なことです。楽しみは、誰かと過ごすことであったり、仲間を作り語るような時間でもよいのだと思います。もちろん、家族と過ごす時間を大切にすることも必要です。

働き方なのですから、まず、働くということをどう考えるのか。みんなで妓楼すべきなのではないでしょうか。

2025年8月16日土曜日

夏休みが終わってしまう

 この時期ですから、夏休みが終わってしまうという気持ちになるでしょうね。

さて、夏休みに十分に気持ちの切り替えができているでしょうか。夏休みも3週目くらいになると、ぼちぼち仕事がしたくなってくるのではないかと思います。仕事を忘れて、3週間過ぎると、僕はそういう気持ちになってきました。このまま休みが続くとさすがに仕事をしたくなくなるだろうなという心配になってくるんです。気持ちの切り替えができれば、また、9月からのお仕事に向かう気持ちができるのではないかと思います。

正直、仕事を辞め、毎日がお休みになってくると、もっと早く仕事を辞めればよかったと思いますが、まあ、それは、モティベーションが無くなったからかもしれません。9月から仕事をしろといわれても、する気にはならないですね。でも、若い人たちは、そんなことをいうわけにはいかないでしょうから、ここは、気持ちを切り替えて、少しずつ仕事モードに入り、学校生活を楽しんでほしいと思います。

Fireを目指すのもいいかもしれません。実際僕は、毎日、少しずつですが、株のトレードで小遣い稼ぎをしています。年金がなくても、そういうことをしているだけで十分に生活をすることはできますので、ある程度働いて、資本をためるのを目標にしてもいいかもしれないですね。

まあ、夏休みは必ず終わりますから、気持ちを切り替え、新しい気持ちで子ども達に対応できればいいですね。

2025年8月14日木曜日

いろいろなアイディアが出ているようですが…

 教員不足が深刻なんでしょうね。ネット上には、いろいろな施策やアイディアが出てきています。でも、それが解決なのでしょうか。まず、基本的に教育系の学部や学科を持っている大学で、採用試験の受験率が低いことが問題なのだと思います。国大によっては、教員養成系の学部から採用試験を受験する学生が3割程度しかいないという話を聞いたことがあります。都内の私立大がでも、教員養成系の学生が採用試験を受けるのは4割程度だと言われています。もちろん、ほぼ全員が採用試験を受けるという大学もあるようですが。

まず、大学生に採用試験を受けてもらえるようになることが直近の問題なのではないでしょうか。大学が教員の最大の供給場所であることは、今でも変わりません。それに、僕が採用試験を受けた時よりも多くの大学で小学校の教員免許が取れるようになっています。おそらく、人数的には、私立大学で小学校の教員免許をとった学生は倍以上に増えているのではないかと思います。

これから、間違いなく人手不足になっていきます。就職先を選ぶのは、学生です。学生にとって魅力的な職場でなければ、教員になろうなどという気になってくれるわけがないのです。

以前にも書きましたが、まず、教育実習の時の対応が大きいと思います。教育実習の段階で、この職場には来たくないと思われたら、その時点でダメなわけです。自分の学校はキチン定時で返しているといっても、学生の間で、学校ってやばいと言われてしまえば、もう、その段階で就職対象ではなくなってしまいます。ですから、すべての学校で、しっかり楽しい職場であり、けっして、ブラック企業ではないと思ってもらうようにしなければなりません。

もちろん、給与面なども大切です。でも、やりがいがある職場だからというのは、ダメだと思います。やりがいがあるから、頑張って当たり前という姿勢が、少なくとも選択肢を多く持っている学生には受け入れられないでしょう。

それから、実際にどのようなフォローを先生になってしてもらえるかが明確である必要があります。1年目は、副担任から始まるなどの施策があれば、安心して先生という職業を選択してもらえると思います。

一度やめた先生たちに再度やってもらいたいというのも、無理があると思います。現在定年が実質65歳なわけです。65を超えている人間にどの程度規定できるのか、そのことはプラスだけなのかをもっと考えた方がよいと思います。

2025年8月12日火曜日

走るなは、無理なのかも

 走るという行為ですが、子ども達にとっては、とても自然な行為なのでしょうね。子どもって、走れるようになると、ともかく走るんですね。親と一緒にいれば、同じ歩幅じゃないわけですから、親がゆっくり歩ていても、小さな子供たちは走らないにしても、早歩きはしなくちゃいけないわけです。

小学生は、よく走ります。といっても、5,6年生になると積極的には知らない子ども出てきます。走る機会の多さによって、走ることに執着しなくなるのかもしれません。6年生の女子などは確かには知らなくなる傾向がみられると思います。

それから、小学校の構造も問題かもしれません。古い学校であれば、廊下は50m前後の直性になっていると思います。以前テレビで見ましたが、東北の学校だったと思いますが、直線をなくして、途中に障害物のようなものを作ったりしている学校がありました。そうなっていれば別ですが、ちょくせん50mは、子ども達にとって、走れと言われているようなものかもしれません。

人間の発達の一つの表れとして、走ると歩くがあるような気がします。ですから、無下に走るなといっても、子ども達には難しいのかもしれません。僕は、できるだけ走るなといわないようにしていました。ゆっくり歩こうねと声をかけるだけで、とりあえずは歩いてくれますから。

2025年8月11日月曜日

チーム担任制って可能なんですか?

 担任というものをどうとらえるかってことなのかもしれません。

中学校などと同じように、教科分担制で行っても、担任を設定することはできると思います。それを敢えて、チーム担任制などという形にしなくてはいけないのは、何故なのでしょう。現場感覚から言えば、担任として、学級組織を作ることが難しいと判断される先生がいるということでしょう。

もちろん、中学校と小学校では配当されている人数比に大きな違いがあります。小学校は、ぎりぎりの人数になるように設定されいます。教科分担を実施するからといっても、おそらく非常勤講師が一人配当されるだけだと思います。また、女性の比率が高い小学校では、必然的に産休や育休での代替職員が入ってくる割合が高くなります。

そのような背景がある中で、チームという言葉を使い、使える駒は徹底的に使いこんでいこうという魂胆はないのでしょうか。

担任の仕事は多岐にわたります。朝の健康観察から始まり、その日の予定の確認。学級によっては、その日の目標を決めたりするかもしません。それから、学級内の人間関係、持ち物についての確認。給食当番への対応。休み時間の出来事の把握、掃除の時間の管理。もちろん、自分の分担されている教科指導。係活動や委員会活動などの管理。その日の中で起きているトラブルの処理。保護者との対応等々。挙げたらきりがないわけです。これらのことを、チームで分担しろと言われても、難しいのではないでしょうか。これまで行われてきた学級担任制は、朝から、下校まですべてを一人が見る前提でできています。1日を一緒に過ごすことで、見つけ出すことができる様々な事柄あった訳です。それが、教科分担制になり、授業の始めと終わりの時間もしっかりと守り、自分のクラスの子どもと家でも、教室内で会うのは、ごく短い時間になっていくわけです。人的に余裕がある状況であれば、補える部分もあると思いますが、そんな状況ではない中で、本当に、チーム体制で担任業務も進めることができるのでしょうか。

余力がない状況を改善するために次々に出される新しい方法。

根本的なことを解消せず、対処療法で終わらせようとしていることに限界を感じるのですが。

2025年8月10日日曜日

年間授業時数の話

 中央教育審議会でも、年間授業時数について話し合われているようですが、今の現状を変えるためには、この年間授業時数を削減するか、人員を大幅に増やすか、の二者択一しかないように思いますが、どうでしょう。

年間授業時数について、ここ数年でようやく、計画段階で時数が立入れていればよいと言われるようになりました。それまでは、非常変災による授業時数の削減を見越して、標準事業時数+非常変災が見込める分を授業時数として計上しなければいけないという風潮がありました。10年以上前に組んだ校長から、それは間違えで、計画段階で時数が満たされていればよいという見解が文科省から出されていると教えてもらいました。でも、この考え方が浸透することはなく、コロナ禍で、授業時数が大幅に減ったことをきっかけにようやく計画段階での授業時数の確保がされればよいことが浸透していきました。4年生以上の標準事業時数は、1015時間ですが、以前は、1050時間くらい計画段階で撮っていたのだと思います。これだけでも、大きな負担になっていたはずです。

だいたい、授業時数を増やした時に、職員を増やさなければならなかったはずなのですが、そんなことは、話題にもされなかったような気がします。授業時数が増えるということは、かなり、大きな業務の拡大だと思います。しかし、そうは、文科省は考えることがなかったような気がします。

給料払ってるんだから、働けばいいんだと思っているんじゃないでしょうか。その姿勢がブラック企業体質だと言われることにつながっているのだと自己批判してほしいものです。

新しい施策を起案したとき、合わせて、予算と人員について考えるのが一般的だと思うのです。しかし、そんなことを考えなかったのか、小学校など、その程度の内容の消化は現有の人員で簡単にこなせると思っているのか分かりませんが、年間の授業時数が増えても、人員を増やすことはなかったのが、大きな問題だと思います。それに、その時点で、余剰時間をとる必要がないと声を大にして言ってほしかったと思います。

現状を変えていかなければ、これからの学校教育を進めていくことがよけい難しくなると思います。そのすべては、文科省にかかっているのだということをもっと自覚してほしいものです。

2025年8月9日土曜日

突然、先生になったりできるのか。

 基礎的なことができれば、本当は小学校の先生はできるはずということなのでしょう。そう考えていなければ、突然先生になってみようと考える人はいないと思います。

初任者は、年間何十時間化の校外研修と何百時間化の校内研修を行っています。かなり時間的にも厳しい中、そこまでやるのかという数の研修会を行っています。それでも、学級がまとまらず苦戦したり、パニックに陥ったりしている現状があります。正規に採用された場合には、文科省が定めた研修を実施する義務が教育委員会にありますから、なんとか、時間を作り出し、ねじ込み、研修を行っています。もちろん、校内でもそれに合わせた研修を実施しなければなりません。人員も配当され、なんとか、進めることが求められます。一方非常勤講師や臨任の先生には、そのようなフォローはありません。経験があろうが、なかろうが、関係なく、教室で授業をしたり、学級経営をしたりしなければならないわけです。

そこで問題なのは、突然、先生になって、先生をやることができるのかということです。もちろん、教員免許を持っているわけですから、先生になる資格はあるわけです。資格を取るために、それなりに大学時代に勉強をしたり、通信教育で学んだりしてきています。ですから、できるのかといわれると、難しいものがあると思います。何十年も前に学んだことは現在に通用しません。もちろん、その間に新しく導入された英語やIPADの活用などにも、対応できないでしょうし、そのことを学ぶ余裕もないわけです。それだけではありません。ここ20年くらいの間に、保護者への対応など、それまで以上に難しい課題が出てきています。発達障害についての理解や対応も、複雑さを極めてきています。実際、正規で採用されても、1年間持続することができない先生も多くなっています。そう考えると、そんなに簡単に先生になれるような状況ではないと誰だって考え付くと思います。

それでも、定数が決まっているので、先生は必要になりますし、療休や産休、育休をとる人だって出てくるわけです。そうなると、先生は必要になってしまいます。早く、負のループを抜け出す方法を考えなければ、現場は疲弊するだけです。方法はあります。補助教員的な形で、あまり責任のない形で、先生を雇用することです。人数を増やし、人数の力で学校経営を計算できるようにするべきです。経験がない先生には、その中で力をつけてもらい、正規の先生には、事務負担の軽減ができるようにするのがよいと思います。

2025年8月8日金曜日

学校には余力がない

 学校には余力がないんです。人員が充足していない学校もあります。たった一人足りないだけで、十分にダメージを受けます。産休や育休のように事前に、それも半年以上前に産休に入る職員がいて、その職員が1年間は最低でも育休をとると教育委員会の人事に報告します。しかし、直前になるまで、人員の照会がないんです。さらに、臨任は難しいので、非常勤でもよいかといわれることがあるのが現状です。非常勤が来ても、非常勤の勤務時間は、8時30分から14時30分まででです。時間給の職員ですから、時間の延長をお願いすることは難しいわけです。ですから、1日勤務時間で働いてくれる臨任の職員とは大きく違います。非常勤の場合、1週間に29時間の勤務になります。そのうち、9時間程度は、事務処理や教材研究の時間にするように、教育委員会からは指導されているわけです。そうすると、18時間程度しか、授業をお願いすることができません。もちろん、それでも十分に戦力にはなるかもしれませんが、何をやってもらえるかというと、おのずと限定されてしまいます。

定数法で小学校は、学級数の1.1倍前後の職員しかいません。1.1倍というのもアバウトな話らしく、いろいろと条件があるようですが。まあ、分かりやすく言えば1.1倍です。それしか、職員が配当されないのは、基本的に学級担任制というコスパの良いシステムを捨てきることができなことが原因です。いろいろきれいごとは言えるかもしませんが、学級担任制は、かつて良い方法だったとしか評価しようがありません。学級担任制では、現状対応することができないわけです。しかし、予算規模は大きくすることができない。じゃあ、教科分担制を取り入れてやればいいんじゃないか。今までだって、現場は何とかやっているのだから、そのままやるって言っちゃえ。的な感じがするのは僕だけでしょうか。

定数が改善され、他の先進諸国並みに25人上限くらいまではやってくれないことには、どうすることもできません。

国防費はトランプの一言で、膨大に膨れ上がることが決まっています。一方学校現場にはお金をかけなくても、成果が出ているんだから。ちょっと給与を増やして、待遇改善をしているっていえばいいんじゃなないかと考えているのでしょう。

そんな状況で、学校には余力がないんです。本当にきつい状態だと思います。

2025年8月6日水曜日

教育DXを進めるのか

 この投稿を書く前に、僕自身は、とても早くからパソコンを使っていました。最初に使っていたのはNECのPC8001です。たぶん、1980年ごろのことです。それから、ずっとパソコンを使ってきています。授業での活用などについても、多少なりとも考え、実践をしてきています。

ですから、全く否定的に教育DXをとらえているわけではないのです。ただ、最近、考えているのは、10歳までの子ども達に、一切、そういう機器を使用させないほうがいいのではないかということです。もちろん、10歳に根拠はありません。区切りとして、考えているだけです。

何を言いたいのかというと、手を十分に使う活動をさせることが大切なのではないかと考えているからです。そして、ある一定年齢までは、活字を読むことに特化した方がよいような気がします。

現在の大人は、誰一人として、IT機器を使って漢字を覚える経験をしているわけではありません。みんな、鉛筆と紙を使って漢字を覚えてきています。今、検証結果が出ているかもしれませんが、少なくとも、昨年度までの間に、デジタルドリルを使った方が有効だという数値を見たことはありません。数年前に、大手のメーカーが検証実験を進めていたようですが、2年間で辞めたという話を聞いたことはあります。検証して、デジタルドリルを使うメリットが大きいということであれば仕方がありませんが、漢字を覚える作業を通して、手の動きの練習をしたり、視覚でとらえたことを指先に伝えたりという意味合いも出てくるのではないでしょうか。その辺の研修がされているのか、知りたいと思います。

DXを進めることは、社会の進み方からしても絶対に必要です。しかし、子供の成長に合わせたものにならなければなりません。

僕の世代でも、すでに40年以上前になりますが、大学生でも本を読むことはないという傾向がみられていました。これだけ、様々な映像が流れるようになっている現在、それを止めることができませんし、映像という手段が、文字にとって代わる自己表現の手段になっているのかもしれません。確かに、そういうことも理解できますが、子ども達が成長し、能力を高めるための経過を研究し、それに合わせた新しい学校づくりをすることも大切なのではないかと思うのです。

2025年8月2日土曜日

一人一人の学びが大切なのはわかっているけれど

 一人一人への教育的配慮が必要。障碍者差別禁止法が施行されて、今教育の世界にもこのことの影響が出てきていると思います。もちろん、一人一人への教育的配慮が必要なのは当然です。僕は、個別支援学級自体が必要ないと思っています。全員が同じ教室で学ぶことに学校教育の基本があるのは自明の理だと思います。ただ、現状では、それが難しいことであるのも間違いありません。35人学級になっても、都市部では、35人という上限で日々を過ごしている子ども達が多くいます。文科省の統計のように全国という単位をつかっていれば、1クラスの平均はもっともっと下がっていきますが、人口密集地帯では、そのような数値にはならないわけです。

一人一人に配慮した学校教育を実施すするためには、上限が25人とか、20人に下がっていかなければ無理があると思います。1クラスの人数をそこまで引き下げ、なおかつ、主たる先生と補助する先生がいて、初めて成り立つような内容だと思います。

少なくとも先進国といわれる国々で30人を超える人数の子どもが1つの教室にいることはないと思います。それだけの予算を教育に割いていかなければ基礎となる条件は整いません。僕が若いころは、教員の給与の国際比較では日本は高い方だったと思います、。もちろん、この30年の間に日本の教員の級は低い方になっています。もっと、教員のなり手がいる時代に、1クラスの人数を減らし、先生をたくさん雇用していれば、なんとかなったはずなのですが、今となっては、手遅れかもしれません。

今では、都市部の学校では1割近い子どもが個別支援学級に通っていることも見られます。個別支援級という枠を別に作り、対応することは望ましいことではありませんが、それをするならば、様々な配慮をすることが条件だと思います。もちろん、発達障害という診断名がついていても、一般級にいる子供たちがいるという現状を考えても、1クラスの人数は減らしていかなければならないはずです。

教育学者や文科省の役人をやっている人たちは、みな、僕なんかよりはるかに勉強が好きな人たちだと思います。そして、人間はみな勉強する存在だと思っているかもしれません。でも、現状は違います。一人一人に対応するためにも、教育の場の在り方をもっと考えていかなければならないはずです。教育にはお金がかかり、とりあえずの収益は0です。でも、それが必ず取り返せるものになるはずだと信じて、お金を投じてほしいと思います。

2025年7月31日木曜日

夏休みの宿題

 夏休みの宿題って、どこの学校でも出しているのでしょうか。教材会社が「夏休みの課題」的なものを出しているので、それを1冊は仕上げなさいとか、1学期にやった漢字の書き取りのテストを夏休み明けにやるから、夏休み中にやりましょうとか。他には、各企業や経営団体、地方自治体などが主催しているコンクール的なものの紹介をしたりしているかもしれません。そして、世間の、保護者の評判が悪い自由研究などもあります。読書感想文も。

夏休みの宿題って本当に必要なのでしょうか。僕は担任だった時に出さなかったこともあります。一番大きな理由は、受験生がいたことです。受験組はかなり長時間塾に拘束されますし、塾で出される宿題の量も多いのです。そこに、さらにやる必要のない学校の宿題が加算されると、とても大変になります。ですから、宿題ということではなく、学習目標を立て、自分に合った形の宿題をやるように勧めていました。もちろん、事前に対応しなければなりませんが、夏休みは、学校が干渉するようなものでは本来ないはずなので、そうしていました。できない子たちは、そこまでのドリルなども進んでいないので、それにチャレンジするようにしていました。

まあ、それでも、やらない子はやりません。それでも本当はよいと思います。理由は、夏休みだからです。

夏休みの宿題は、保護者からの要望があるからということになっています。しかし、本当にそうなのでしょうか。宿題依存になりやすい傾向が保護者にはあります。決まり文句のように「宿題はやったの」と、言っているのでは、何ら解決することができません。夏休みの過ごし方を保護者と子どもと話し合い、最後の1週間まではしっかり遊ぶ。最後の1週間はリハビリ期間として、少しずつ学習に取り組む。その程度で本当はよいのではないでしょうか。

まあ、最近はデジタルドリルを使用するようになっていますから、その活用で、だいぶ違った夏休みになっているような気がします。

学校が何でも引き受ける。その慣習を断ち切らなければ、学校は変わっていかないと思います。

2025年7月27日日曜日

チーム〇〇

 チームで対応ということが言われるようになって、何年か経ちます。小学校は、学級担任制が基本になったシステムができています。まあ、自分のことは、自分で何とかしろというシステムになっていました。真実がどうか分かりませんが、この10年間くらいの間に、学級担任制を維持できない先生が増えてきているのだと思います。そこで、責任を分散し、できる先生には、なるべく多くの負荷をかけていこうというのがチームで対応の最初だったのではないでしょうか。本来ならば、基本的なシステムを変更することが先で、その実行手段として、チームでの対応ということが出てくるはずだと思います。確かに、学年内で教科分担制を実施したりすることも進めています。ですが、中学などで実施している教科分担ではありません。余剰人員という言い方は適切ではないかもしれませんが、ぎりぎりの人数で実施する教科分担制は、とても組み込むのが大変です。どう考えても、教科分担制を実施するためには、学年の学級数+1いないと難しいのです。そんなことは、文科省は100も承知だと思いますが、例後のごとくゴリゴリと話すを進めるわけです。そして、多少の人数を増やして、これでできるだろうと、現場に投げている状態だと言えます。

チーム制に関しては、本当に大変な先生は大変になっているだけだと思います。自分のクラスのことだけでなく、隣のクラスのことまで気にしていなければなりません。これって、教科分担制とはそぐわない部分が多いのです。教科分担制は、授業が始まって、授業が終わるまでをしっかりとみる。授業を進めるというのが基本になるはずです。学級担任制は、1日の何時間もを一緒に過ごし、細かく見ていることが求められます。ですから、教科分担をしていくと、学級担任制の時と同じフォローができなくなるという側面があります。ましてや、余剰人員がいない状態では、よい方向に向かうことは難しいはずです。

今、若い先生が増えています。フォローしなければいけないことも多くなっています。だから、チームでというでしょうが、負担が多くなり、潰れていく先生も増えていくと思います。また、責任の所在を明確にできない部分が出てくることも心配です。教科分担制を進めるにしろ、学年担任制を進めるにしろ、システム自体の基本を変化させていかないと解決できないはずなのです。そのためには、多くの予算や人材の育成も合わせて検討していかなければならないはずです。また、これらの話は、都市部と都市部以外では状況が異なり、同じように話すことも難しいと思います。

教育は、全国を同じように見てできるものではないと思います。そのあたりまで含めて、悉皆りとした検討をし、現場に様々なことを押し付けないでほしいと思います。

2025年7月23日水曜日

しっかり夏休みが取れることをアピールしよう

 最低でも2週間まとめて休暇が取れることは、職業上の魅力だと思います。夏季休暇の5日間と年休5日間で2週間の休み。なかなか、まとめて休暇をとれない職場多くある中、しっかりとまとめて休暇をとれる小学校の先生。十分に魅力的ではないでしょうか。同じ公立でも、中学校は、部活があり、夏休みは対外試合も組まれたりして、まとめての休暇は難しいかもしれませんが…。

戦後、日本に経済力がなかったことから、現在の有給休暇制度ができたと聞いたことがあります。本来なら、ヨーロッパ並みに、バカスができるようまとめて休暇が取れるように義務付けたかったようですが、それをするだけの経済的な体力がなかったことから、小刻みな休暇の取り方が一般的になってしまったようです。

小学校の先生はまとめた休暇が取れるだろうと書きましたが、1年間にほとんど年休を使っていない先生も多くいるのもわかっています。しかし、20日の有給休暇を全部消化すれば、実質的な労働日数は11か月分になるのです。もちろん、これは、すべての労働者に言えることで、教員だけではありません。年休をとらないことは、1か月分ただ働きをしているのと同じことになってしまいます。権利だからではなく、制度としてあるものですから、労働者としては、それを執行すべきだと思います。

特に、小学校の先生のようにまとめて休暇をとれる体制が取りやすいなら、それを大切に使うべきだと思います。

海外に行くのも、よい刺激になります。国内でリラックスできる過ごし方もよいと思います。今までやったことがないことに挑戦することも、貴重な体験です。そして、それらは、視野を広げ、必ず先生という仕事に役立つものになると思います。

僕は、一人で海外に行き、美術館を巡るのが好きです。とても楽しい、刺激的な時間になっています。もちろん、国内の美術館を巡るのも楽しい時間です。

制度としてあるものを有効利用することは、とても大切だと思います。僕が若いころ、風邪をひいたら困るから年休は使い切らないほうがよいと教わりました。しかし、公務員の休暇制度は充実しています。風邪をひいたら療養休暇を申請すれば済みます。

ですから、よけいなことを考えずに、みんながまとめた休みをしっかりとってほしいと思います。そして、そのことがこの仕事の魅力の一つになると思います。

2025年7月21日月曜日

通知表と評価の話をもう少し

 学校間の格差が実際には存在していても、それが、通知表に反映されていないことは、書きました。もう少し具体的に。

小学校では、出版社が出しているテストを買っています。なぜ、そうなっているのかは分かりません。40年以上前にも、すでにテストは購入していました。不思議ですよね。一番肝心な部分の学習状況を把握するものを出版社に任せているわけですから。疑問に思って、購入を辞めようといったこともあります。しかし、それに賛成してくれる人はいませんでした。

あの出版社が出しているテストって、必ず教科書に書かれていることが理解できていれば、必ず100点が取れるようになっているはずなのです。僕は、そんなに詳しく分析したことはありませんが、出版社によって、ある程度難易度が異なっていると言われます。そうはいっても、どの出版社のテストでも、それほどの差があるとは言えないと思います。

学校間格差は、テストの処理の仕方にも表れます。学習に対して熱心な学校であれば、この程度の問題はかなりできてしまうのです。算数などは顕著で高学年になっても、平均点が98点くらいなことも珍しくありません。そうであれば、少なくともテストで計測できている分に関しては、クラスの大半にAをつけてよいはずなのです。しかし、実際には、Aの基準を上げていく傾向が強いと思います。逆に、学習面で低い学校では、平均が80点ということも多く見られます。そうすると80点でもAという評価になってしまうわけです。同じテストを購入していれば、この様な現実も見えてくると思います。

ですから、通知表でつけられている評価、もっと言えば、指導要録につけられている評価だって、実態をしっかりとあらわしているものだとは言えないと思います。それに、昨日も書きましたが、日本にはなぜか留年という発想がありません。ですから、1をつけられても、それに対する解決手段がないまま、進級してしまうわけです。個に応じた教育の必要性がいまさらながら言われていますが、それを実現するための予算や人材、教材の開発がされていないという現実があります。

評価は大事です。でも、現実には、いろいろな問題が解決されていないという現実を振り返るべきではないでしょうか。

2025年7月20日日曜日

小学校の通知表に意味があるのか

 3学期制の学校では、通知表が渡されたことと思います。その通知表ですが、本当に意味があるのでしょうか。まあ、保護者としては、一定の評価がされたと、一つの基準にはなるかもしれません。

しかし、現在の小学校の通知表は、基本的に指導要録を基準としています。ですから、3年生以上に3段階の評定がされるわけです。そして、指導項目についても3段階の評定がされています。

本来的には、この評価の基準は、すべての小学校で同じはずなのです。ところが、転校した先の学校と転校する前の学校の評価が全く違ってしまうということがあります。前の学校では、ほとんど2だったのに、転校したら3がつくようになったり、逆のこともあると思います。僕が若いころには、通知表の評価も、指導要録の評価も相対評価で行われていました。クラスの中での位置が関係が分かるようにつけられていたわけです。7%、24%、38%、24%、7%の5段階に分けて評価をする方法をとっていました。それが、絶対評価に変わっていったのです。ところが、実際には、「絶対」評価を行っているのかといわれると、かなり疑問が残ってしまいます。

学校の現実として、地域性が必ず反映しています。私立中学の受験率が高い学校の子ども達は、当然、「できます」。まあ、塾のおかげもあるでしょうが、基本的に1日の学習時間が長いのです。放課後3時間以上学習に充てているという子供の割合が6割以上という学校もあります。反対に、受験の割合が10%以下という学校もあります。当然、放課後の学習時間など、ほとんどありません。この差は、学力に関して大きく反映するのは当然です。ですから、学校間の評定が同じなのかといえば、全然違っているはずなのです。家庭で学習に力を入れている地域では、3の割合が60%だとしてもおかしくないわけです。一方あまり学習に熱心ではない地域の学校では3の割合が10%でも不思議はありません。それが、絶対評価ということですから。しかし、おそらく、どの学校も3をとっている子の割合はそれほど違っていないはずです。ですから、本来的な意味での絶対評価が今でも、実施されていないというのが現状だと思います。どこかしら、相対評価的な心理が働いていると思うのです。

それだけではありません。日本には留年制度はありません。たとえ、すべての教科の評価が1であろうと、進級してしまいます。そういうことも、通知表の在り方が重視されていない理由かもしれません。次回は、もう少し具体的に細かい評価の話をしていきたいと思います。


働き方に対しての意識を変えないと。

いつから学校の「働き方」は問題になったのか 働き方の問題が現場で話題になり始めたのは、2016年ごろだったと思います。 それ以前は、働き方が問われることはほとんどありませんでした。タイムカードすら存在せず、遅くまで仕事をして注意されることなど一度もなかった時代です。記録がないので...