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2025年10月30日木曜日

授業を成り立たせる

 授業って難しいですよね。気持ちよく授業ができるなんて、1年間に何回もなかったような気がします。

まず、話を聞いてくれなければなりませんから、話を聞く習慣がクラス全体に身についていますか?

そのためには、話している方の意識が大切だと思います。話すときは、必ず子ども達を見ていること。黒板に板書しながら話すをのやめるだけで、聞く態度はよくなります。結構、時間の問題などもあり、忍耐力を要しますが、僕は大切にしたいと思っていました。

話す速さも、大切です。低学年になればなるほど、話を聞き取る力が低いです。ゆっくり話すことが何より必要だと思います。これも、なかなか、徹底できるようにするのは難しいですが、学年に応じた話す速さを意識してほしいです。

それから、先生に徹すること。これも、学年が上がると素の自分が出やすいのですが、先生という役柄を自分で作って、演じ切ることが大切だと思います。

これらのことができたら、内容です。子ども達が考えることができる問いかけができることが大切です。それは、こうなんじゃないかなと、考えることができるような設問は必要だと思います。

それから、最終地点が明確になっていること。その授業で、何を考えたのか、その結果、どういう結論を出すことができたのかが分かる授業になっているといいと思います。

子ども達が、その時間に集中できるような内容であれば、授業が終わって、満足感を持つことができるのではないでしょうか。

偉そうに書いていますが、なかなか実践するのは難しいですよね。

2025年10月28日火曜日

昭和と平成

 今では、平成生まれの先生の方が、昭和生まれより多いんでしょうか?統計的な資料を確認したことがないので正確には分かりませんが。平成元年に生まれていれば、36歳なのでしょうから、比率的には同数くらいなのかもしれませんね。

平成だから、昭和だからと、別に何の意味もないのですが、どっぷり昭和生まれとしては、去年のテレビドラマ「不適切にもほどがある」を思い出してしまいます。

1986年には、僕は先生をやっていました。あのドラマを見ながら、そうだったなと思うことがたくさんありました。もちろん、誇張されていることはたくさんあったのでしょうが、イメージ的には、あのドラマに出てきたことを納得してみていました。

そう考えると今と昭和とは隔世の感があります。一つ一つの価値観などというよりも、生き方自体に大きな違いがあるのかもしません。その割には、学校が変わっていないような気もします。文科省がひきざんがにがてということを書きましたが、学校自体も、引き算ができないのではないでしょうか。実際には、学校だけで決めれることがたくさんあります。

30年前の指導要領の改定の際、特活は70時間から、35時間に時数を減らされました。当然、クラブや委員会は時数の中に入らなくなったのですから、この時点で辞めてしまうことができたはずです。しかし、実際には、時数に組み込まれていないのに、それらは継続して行われています。これは、学校の本団として残したものです。行事についても、その時数は減らされませんでした。

最近になり、ようやく余剰時数のことは広く理解され、余剰時数がほぼなくなってきていると思います。これについても、学校の判断が誤っていたのに、教育委員会や文科省が、学校の責任でやっていることとして、知らん顔をしていた事柄です。

昭和と平成では、異なった価値観になっています。昭和がよかったなど思っているわけではありませんが、意外と昭和が残ってしまっている気がします。

早く令和のスペックを考えていかなければならないのではないでしょうか。

2025年10月27日月曜日

毛筆やそろばん

 確か、30年前の学習指導要領の家庭の際に、図工をなくしたらという話が出ていたような記憶があります。

そろばんや毛筆の話もよく出されますよね。必要なのか。そこに使われている時間が、一定の教育効果を持っているのか。東洋経済のオンライン版でも取り扱っています。

もちろん、そろばんや毛筆、図工や音楽、体育なども、どれだけ必要なのか本当に議論されているのかなと疑問に思うことはないでしょうか。

体育だって、何のために、器械運動などやるのか、よくわかりません。跳び箱やマットなどをやめてしまえば、怪我をする率だって飛躍的に低下すると思います。

東洋経済の記事には、文科省は引き算ができないと書かれています。本当に、そうだと思います。足し算で行政を進めるのなんて、簡単だと思います。やめることは、文科省じゃなくたって大変なんです。学校を運営していても、やめるという提案をするのは、とても苦しいし、嫌な思いもします。それでも、学校が成り立っていくためには、やめること、引き算をすることが必要なんです。

日本の社会は、学校でやっているということに関心を持ちすぎていると思います。各企業や業界団体など、学校が扱わなくなったら困ると思っている組織が多すぎるのです。別に、学校で水泳をやらなくても、今の時代、水泳が廃ってしまうとは思えません。学校で、そろばんをやらないから、誰もそろばんをやらないということはないと思います。もし、学校でやらないから、そのことが原因で衰退するようなものであるならば、無くなってしまうのも時間の問題だったのだと思います。

今一度、学校がやるべきことは何かを問うべきです。そして、現場の声を聴くべきだと思います。

2025年10月26日日曜日

本当に一人一人に応じた授業ができるのかなぁ

 発達障害という言葉が定着して、かなりの年数が経ちました。先生達にも、保護者にも、この言葉が定着し、様々な対応がとられるようになってきています。医療的な措置がとられ、カウンセリングや療育が一般的になっているのかもしれません。

今考えると、担任をしていた時に持っていた子供の何人かは、発達障害だったんだと思います。まだ、その頃は、発達障害という言葉一般的ではありませんでしたから、かなり高圧的に対応したこともあったと、反省してしまいます。

落ち着かない、興味や関心に偏りがある。固まってしまい、教室から出ることができない。思い当たることは山ほどあります。

今では、薬を飲むことで、安定する子やクールダウンすることで、落ち着く子もいることが分かっています。ただ、すべての子どもがそういう措置を受けているわけではありません。これだけ、発達障害が一般化していても、療育を受けることや薬を飲ませることに抵抗感を示す保護者も少なくありません。

確かに、家庭では、それほど問題行動が起きるわけではないのだと思います。家庭内では、嫌なことや関心を持てないことを強制されることはないからです。ですから、突然、怒り出したり、大声を出したり、暴力的な行為が見られたりすることは、少ないと思います。基本的に、おとなしい子も多いですから、家庭では、それほど保護者を困らせることはないのでしょう。

それから、よく聞くのは、「私もそんな子供でしたから、大丈夫です。」という言葉です。よく父親から言われます。大人になる過程で、社会的な適応ができるケースも多くあるということなのだと思います。ですが、学校では、それでは済まない現実があります。

文科省や教育委員会が言うように、一人一人に応じた教育を提供することができるのが、一番大切であるのは言うまでもありません。しかし、そのためには、現在の状況では無理だと思います。それなりのコストをかけなければできないことを現場はしっかりと主張すべきだと思います。やれと言われてできることと、やれと言われてもできないことがあることを、みんなで共有すべきです。

2025年10月24日金曜日

運動会なのに天気が悪い

 秋の運動会の季節ですよね。10月末の週末に運動会を計画していた学校も多いと思います。

それにしても、天気を相手の運動会。今までの常識が通用しない天候に、計画段階から頭を悩ませている先生も多いと思います。

僕が若いころは、春の小運動会、秋の大運動会と、2回運動会をやっていました。それがだんだん整理され、運動会は1回になったんですね。

それにしても、気候がこれだけ変わってしまうと、行事の持ち方自体を考えなくてはいけなくなってきますね。

まず、外での行事ですが、4月、5月、10月の3カ月ができる限界なのではないかと思います。どの行事もそうですが、その日だけではなく、事前の準備や練習なども含めての行事ですので、6月から0月までの暑さは、外での行事ができる状態ではないと思います。

4月に行事を組むのは、可能だと思いますが、忙しない気がもします。運動会だけではなく、遠足系の行事や宿泊関係の行事も4月は難しいかもしれません。5月は、頭の部分の連休があるので、実質的な日数が減ってしまいます。そこがネックですね。それに、6月近くなるとかなりの暑さを感じる日があります。熱中症への対策など、考えることが増えることを思うと、やはり、難しいのかもしれません。

宿泊系の行事も難しくなってきましたね。クマが出没したり、蜂が飛んでいたり、できることが限られてきています。

運動会も、宿泊系の行事も、本当は、やる意味があるのかから考える必要があると思います。様々な条件が変わってきているのに、それを考慮に入れることなく、今まで通り実施していくのは難しいことだと思います。

学校がやるべきことを縮小することが今必要だと思います。大きな行事をどうするのかを社会全体の共通の話題にできれば、学校の在り方を変える大きなきっかけにできるはずなのですが。

2025年10月18日土曜日

子ども達が話を聞いてくれない

 学級崩壊の原因の一つは、子ども達が話を聞いてくれない状況ですよね。

学級ができた時が、一番効果的ですが、まず、話を聞かせることができるようにすることが大切です。

4月や9月のようにスタート時点では、子ども達は必ず話を聞きます。どんな先生か分かりませんし、先生がどういう出方をしてくるのかは分からないので、とりあえず話を聞くわけです。この時が一番のチャンスです。この時、先生の話は分かりやすいと思わせなければいけません。

ゆっくり、あまり大きな声にならないように気を付けて、話をすることが大切です。また、指示を出した時、それが、分かりやすいことが大切です。できれば、一回の話の中で、いくつも支持が出ているのは避けたいものです。一指示、一行動とはできないかもしれませんが、一回の話の中で指示が複数あると、混乱してしまう子供が出てきます。ですから、そういう子供に照準を合わせて、指示は簡潔に、分かりやすく、さらに、複数の指示をまとめて言わないことが必要です。低学年などであれば、黒板に板書することも効果的かもしれません。

子どもによっては、単純すぎると、次はどうするかを知りたがるかもしれません。そういう子供に照準を合わせると、ついてこれない子どもがいますから、それは、避けた方がよいと思います。

子どもが質問をした時、一対一で答えないことも大切です。教室は子どもがたくさんいます。ですから、一人がした質問を全体で共有し、全体にその回答を伝えることが大切です。けして、一人、一人に答えないようにしましょう。

それから、話し方に気を付けましょう。低学年になるほど、拾える言葉の数は少ないです。ゆっくり、話をする習慣をつけましょう。その方が、確実に一人一人に言葉が伝わっていきます。

そういう積み重ねが、話を聞く子供を育てていくことになると思います。

なぜ、話を聞いてくれないのか、原因を考えましょう。

2025年10月15日水曜日

みんな大丈夫ですか。

 先生たちみんな大丈夫ですか。3学期制の学校では、1カ月半が経過し2学期の後半に向かっています。2学期制の学校は後期が始まりました。

すごく心配しているのは、子ども達の権利がとても強く認められ、先生たちが気分的に追い込まれていないかということです。余計な心配かもしれませんが、だんだんと子どもを叱ることが難しくなっているのではないかと感じています。

先生が怖い顔をしたというだけで、保護者から連絡が来たりしていないですか。

先生の怒り方が怖くて、自分が怒られていなくても、不登校になった子供が出たりしていませんか。

怒るという方法は確かに有効な手段だとは言えないかもしれません。ましてや大きな声を出したり、音をたてたりなどは、今時としては、よい方法ではないでしょう。しかし、様々な手立ての一つであることも事実です。

先生達から、一つ一つ武器が取り上げられていくと、手立てをたくさん持っている先生ならよいのですが、まだ、それほど手立てがない先生にとっては厳しい部分があるような気がします。

これから、もっと、規制される部分が出てくると思います。子ども達が先に何かを言い始めると先生たちが反論できないことも出てくるような気がしています。

そうなっても、大丈夫な技術を手に入れておくことが大切だと思います。頑張りましょう。

2025年10月9日木曜日

自分の時間は大切

 働き方については、様々な議論がされています。民間企業でどのように進んでいるかは分かりませんが、学校では、確実に進めることが元られていると思います。実際、教育委員会は、全職員の時間外勤務の状況を把握しています。何時間働いたか、どれだけ、時間外勤務をしているのか。各学校の平均を出し、校長にプレッシャーをかけています。

ただ、学校の問題は校長です。それぞれの校長の考え方によって、働き方について異なった見解が出てしまうわけです。学校という単位は小さいですので、学校の中でのことを校長が把握することは簡単です。ただ、その校長の考えがそれぞれ異なっているわけですから、なかなか、大きな単位で見た時に、統一されたものになるとは言えないと思います。特に、現在管理職になっている世代は、厳しい働き方の状況を経験している職員が多く、頑張って働くことをよしと思っている管理職が多いと思います。自分の経験をよしと思ってしまうのは、仕方ないかもしれません。特に、研究をすることを求められていた人は、それを良い経験だと思ってしまうのではないでしょうか。確かに、研究などをしていると、充実感があるのかもしれません。日本の教育の基盤だと言われ、それに素直に従ってきた世代は、当然、これからも続けたいと思っていると思います。

しかし、本当にそうなのかは明確なデータがあるわけではないのです。大学の先生たちが、日本の教育の特色をまとめた時に、諸外国にはないものとして、現場の研究姿勢を評価しただけなのではないでしょうか。

そして、今の学年主体のチーム対応というのも、実際には先生達を苦しめていると思います。チーム対応ができるだけの人的対応もせず、今までの予算の中でできることをやれと言われているわけですから。自分一人で進めてしまえばよいことまで、チームで対応ということが多くあると思います。

自分の時間を削っても、チームのため、学校のために働くことが今の時代よいことなのかは考えるべきです。自分の時間は大切です。前にも書きましたが、アウトプットだけでは、苦しくなる一方です。インプットも大事ですし、学校外の人間関係も大切にすべきです。そういう、心の余裕をなくしてしまうと、切羽詰まってくると思います。

2025年9月27日土曜日

“時間外勤務 月45時間超ゼロに” 教員の働き方改革へ指針改定なんてできないでしょ。

 表題通りのことができるわけないと思うのですが、どうでしょう。

できないということの根拠がいくつかあります。

まず、何故それだけの時間外勤務をする原因を追究していないこと。原因があるから、それだけの時間外勤務が発生してしまうわけです。それなのに、原因については、追及していないわけです。

二つ目。解決すべき方法が示されていないこと。人員増をするとか、業務内容を明確にするとか、それらのを避けていること。それでは無理があります。

三つ目。保護者との問題です。保護者は、これまでと同様のサービスを受けることを当然と思っています。それに応えようとする教員の意識。これが解決するまで、何ら解決することは難しいのではないでしょうか。

時間外勤務の原因は、足し算しかしてこなかった文科省にあるのは歴然としています。新しい政策を実施する際には、それに応じた人員を増加させるというのが当たり前のことだと思います。それをしなければ、オバーワークになるのは、当然のことです。でも、多くの場合、現場に任せればやってもらえると勝手に決めつけられてきました。そして、そのことが、多忙化を生み、教員のなり手がいなくなるという最悪のシナリオを作ってしまいました。業務内容もそうです。先生の仕事は、授業をすることです。学力を高めることが第一の仕事です。だから、OECDのピサ型の結果に一喜一憂してきたんだと思います。それなのに、給食指導だとか、清掃指導だとか、教室の整備だとか、まで教員にやらせているのが無理を生じさせていると思います。先進国の中で、こんな扱いを受けている教員は日本だけじゃないでしょうか。それは、すべて、コストカットのために行われていることなんです。

保護者との問題は、現場にも原因があります。業務時間など気にせず、いつでも対応しますという姿勢が保護者に伝わってしまっているのです。24時間営業なのかと思うような例が多々あります。これは、業務時間を明確にしてこなかった現場に問題があるはずです。

原因を追究し、その解決を図らなければ、いつまでも、時間外勤務が0になりません。0にすることが目標のはずですから。

2025年9月25日木曜日

すべてを戦力にすることができるのか

 教員不足が切実な問題になっている状況がもう何年も続いています。

これって、本当に深刻だと思うんです。小学校は、教員の配当の定数が低いですから、一人の割合が大きく全体に影響するんですよね。校長をやっているときは、ともかく、少しでも先生たちが楽になるように工夫することばかり考えていました。楽って言い方は正しくないかもしれませんせんが、楽をすることは間違えではないと思うんです。余裕があることは、大切ですし、今までの働き方や時間の使い方は、本当に無茶苦茶ですから。

余裕があることで、授業のことや子ども達のことを考えることもできますし、様子をしっかりと見る気持ちの余裕もできます。

担任としては、授業をどう進めるかを考える余裕があることは、とても大切にすべきです。事務処理だって、ちゃんと勤務時間内に収まるようにすべきなんです。だって、今の給与の在り方は、勤務時間で仕事が終わることを前提にしているんですから。給与だって、いつの間にか、OECDの中で、低い部類に入ってしまっています。僕が勤め始めたころは、日本の教員の給与って、比較的高かったような気がするのですが…。

話がそれました。教員不足で、雇用できる先生を捕まえることができない現状では、今いる先生達で、うまく回していかなければならないわけです。ところが、新採用の先生が多かったり、体調やメンタルが十分に整っている先生ばかりではないという状況があったり、産休や育休の代替さえ、見つからず、頭を抱えたりすることがたくさんあります。なかなか、配当人数とそれをもとにした戦力が一致しないということさえ起きています。もちろん、そういう時に何らかのアイディアを出すのが校長だと思うのですが…。

難しいことは百も承知で書けば、職員に少しでも負担をかけないように、無理をしないで済むように考えなければいけないと思うのです。その責任は校長が背負うべきだと思います。

校長って、考えるだけなんです。考えることだけが仕事なんです。僕は、そう思っていました。自分手では何一つ実現することができない立場です。だって、校長は先生ではないんですから。

2025年9月23日火曜日

なぜ、先生になろうと思わないかのを考えた方がいいのではないですか。

 教員採用試験を受けることすらしてもらえないというのが、現実だと思います。

もし、そうであるならば、何故先生になろうと思ってもらえないのかから考えなければならないでしょう。

大学生活の中で、人より多くの時間講義を受け、教育実習を初めとする実習に参加し、得ることができる教員免許。大変ですよね。僕は、教育系の大学だったので、それをとらなければ卒業できませんでしたから、問題はありませんでしたが。それでも、それなりの単位数をとることが必要でした。そこまでして、教員免許を取得したわけです。

でも、教員採用試験を受けてくれない。大学によって大きな差があるようですが、教育系の学部の3割程度しか教員採用試験を受けないという大学もあるようです。

何故なんでしょう。一説にはSNSの影響だと言われています。実際に学校に先生として勤務してやめた人たちのYouTubeやxなどの投稿は影響があると思います。僕は、YouTubeを何本か見ましたが、それが、全面的に正しいとは思いませんでした。SNSだけでなく、メディアの報道も悲惨な状況ばかりを伝えていますし、ドラマなどでも、いい状態を伝えているとは思えません。まあ、現在の状況からすれば、学校現場をよい職場だと、楽しい仕事だと言いにくいところがあるでしょう。

本来先生の仕事は、授業をすることです。最近になり、ようやく雑用の一部がアウトソーイングできるようになってきましたが、本当に、本来業務がおろそかにされているのだと思います。

先生がワックスのかけ方やポリッシャーの使い方を知っている必要があるのでしょうか。プールの水の管理を先生がする必要があるのでしょうか。学校に一方的に送られてくるチラシを子ども達に渡す必要があるのでしょうか。宿題の丸を付け、漢字を治す作業が必要なのでしょうか。それよりも、どうやって授業をするか考える方が大切だと思います。なぜ、先生がいろいろなことをやらなければならくなっているのか。それは、先生がやることが規定されていないからです。授業をするための人だと、分かっていれば、現状が変化していくと思います。

ぜひ、難しい議論だけでなく、一番シンプルなことを話し合ってほしいと思います。

2025年9月16日火曜日

不祥事って、組織的な責任なんですか?

 教員だけではないですよね。警察官や自衛官、医療関係などもそうでしょうが、何か不祥事が起きると、その業界関係全体が責任があるように言われるのはおかしいのではないでしょうか。あくまでも、不祥事を起こしたのは一個人です。その人物が様々なことを言われたり、非難されることは問題はないと思うのですが、関係のない職員全体に問題があると考えるのはおかしいと思います。

不祥事防止という名目で、どれだけ多くの時間を割いているのか。学校関係であれば、教育委員会が旗を振り、不祥事防止を盛んに言うわけです。しかし、不祥事の中でも、猥褻関係に関しては、確実に個人的な犯罪ですから、その個人以外がどうすることもできないわけです。もちろん、該当者が務めている学校に責任がないのかといえば、全く責任がないとは言えないかもしれません。兆候を見ることができたかもしれないし、言動についても、把握できることがあったかもしれません。また、保護者が自分の子どもが被害にあっていないか、疑心暗鬼になるでしょうし、他にもそういうことがなかったのか、聞きたくなる気持ちは理解できます。

それでも、言ってしまえば、あくまでも、個人のしたことであり、不祥事を起こした本人が責められるべきことだと思います。

それに、冤罪ということもあります。実際、不起訴になった例もありますから、教育委員会が発覚後、丁寧に調査をすることは大切だと思います。不起訴になっても、そのことはほとんど報道されません。以前、事件は大きく報道されたのに、不起訴になり、当該職員は何も問題がなかったということがありました。街頭校の校長は、そのことが報道されず、事件を起こしたとされる職員の名誉が回復されないことを怒っていました。

ともかく、学校関係者全体が責任を負っているということは、事実ではありません。もちろん、不正会計などは、学校単位で責任を負わなければならないかもしれません。ですが、すべての事件を学校関係者全体が責任を負っているという方向性は間違っていると思います。

SNSの時代ですから、ことさら、この様な形になりやすいと思います。もう一度考えることってできないのでしょうか。

2025年9月15日月曜日

どうしたらいいのか。

 いろいろ問題点があることは、間違いないと思います。では、それらの問題点に対して解決方法があるのでしょうか。

まず、話すことについてです。

話をするとき、表情、声の大きさ、声の高さ、間の撮り方、話す速さなどに気を付けることが大切ですよね。当たり前のことかもしれませんが、これが、意外と意識されていないような気がします。表情はどうでしょう。笑顔で話しているでしょうか。僕は、担任だったころ、教室に行くまでに笑顔になるように、顔を動かしたり、笑顔を作る練習をしていました。基本的な表情が笑顔であることは、とても大切です。普段が笑顔であれば、笑顔じゃないときは、何か問題があると子ども達に気付かせることができます。普段から、深刻な顔をしていたら、それが通用しないわけです。子ども達は変化に敏感です。ですから、その特性をうまく使うことが大切だと思います。

もちろん、声の大きさも大切です。これも、日ごろから、大きな声にならないように気を付けることが大切です。日ごろから、大きな声を出していると、本当に必要な時により大きな声を出すことが必要になって今います。できるだけ、日常的な声の大きさをどの程度にするか考えることが必要になります。教室の前で話して、一番後ろの席の子どもにしっかり聞こえていればいいのですから、それほど、大きな声は必要ないと思います。まあ、声の高さにもよるかもしれませんが。声の高さも、あまり高い音だと、継続的に聞いていて疲れてしまいます。声質の問題もありますが、それほど高い音にならないように気を付けることも必要です。一方低い声が聞きとりにくい面があります。その場合には、少しトーンを高めにする工夫をしましょう。

話す速さですが、これも、気を付けた方がよいでしょう。結構話す速さが早いという先生もいます。しっかり聞くことを徹底したいのですから、話す速さにも気を使わなければなりません。特に、低学年になればなるほど、速さに気を付けてください。下の方の学年の子どもは、言葉を聞き取る能力がまだ低いです。聞き取れないことがあれば、集中力も途切れます。意識的にゆっくり話すようにしてほしいと思います。

2025年9月4日木曜日

不登校の子ども

不登校が話題になりますよね。

学校に来ないというのは、学校にとってもとても困ったことになるわけです。しかし、実際にどの学校でも、不登校になる子どもがいると思います。校長として、対応しているときに多くいると感じたのは、ASDの子ども達です。どうしても、円滑な友達関係を作ることができず、それが発端で不登校になっている子がいると思います。幸い、学習に関しては、リモートで学習を進めることもできていますし、ICT機器を利用して進めることもできていました。ただ、根本的な問題である人間関係を円滑に進める方法を獲得するためには、それなりの対処法を身に着けることも必要になってきます。学校としては、療育センターとの連携を図ったり、教育委員会が進める学習施設を紹介したり、スクールカウンセラーとの面談をセッティングしたりもしてきました。しかし、多くの場合、それらが解決するための手段になっているのかというと、そうではなかったと思います。6年間、不登校支援が施設に通っている子も何人か見てきました。我慢して、教室に行くことが必ずしもよいことだとは思いません。自分の学習が進められる環境があるならば、それを選択すべきだと思います。ただ、同じ人間関係でも、困ったことに、先生との相性が悪いというパターンがあります。特に、集団生活が苦手で、うまくコントロールできない子が、集団生活の規律を乱すという理由で、先生からしつこく指導されてしまい、教室にいられなくなってしまうのです。確かに、以前は、そういう指導もあったと思います。自分自身も担任だった時には、ちゃんとみんなと同じようにやりなさいと言っていた時期もあります。もともと、学級担任制は、担任にすべてが委ねられていましたから、そういう指導をしてでも、教室の秩序を保つことが求められていたのだと思います。先生が威圧的であったり、特定の児童を非難するような指導が今でも残念ながら残ってしまっていて、そのことが不登校の原因になっていることもあります。また、細かいところまで気が付いてしまうために、注意する回数が多い先生の場合にも、不登校の児童が出る場合もあります。よく教室に行けない子どもに話を聞くと、他の子のことを大きな声で怒っているのが怖くて行けないという言っています。

無理をしても学校に行くようにという指導は、さすがに見られなくなっていると思います。しかし、ASDの傾向がある子どもにとっては、それでよいかもしれませんが、先生が自分の指導法を改善すれば修正できることも多いと思います。学校としては、考えることがいっぱいでなかなか手が回らないかもしれませんが、改善することが必要なことを改善した方がいいですよね。


2025年9月2日火曜日

外国人問題って何

 話題にはなるけれど、地域によっては、ピンとこない話でもあると思います。正直、外国人という一つのくくりでまとめることには、疑問があります。日本人の家庭にも、様々な家庭があるように、当然外国人といっても、一律にとらえることなどできません。僕は、担任として中国人、ベトナム人、フィリピン人の子どもを受け持ったことがあります。それぞれに、家庭状況が異なり、子どもに期待していることも全く異なったものでした。実際優秀だった子は、名古屋大学に進学しています。

母国で、どのような生活をしていたのか、また、どのような状況で日本に来ることになったのかなど、その子を取り巻く要因によって、異なることなので、一概に外国人だからという論調になるのは納得できません。

実際「明日1年生の娘が日本日来る」といわれたことがあります。「日本語は一言も話せない」と付け加えられました。その子は、実際に日本に来た翌日から学校に登校してきました。話せるのはポルトガル語だけ。まあ、半年もたつ日本語をすらすらとしゃべっていましたが…。

外国人に関しては、言語的なことが一番気になります。これは、帰国子女も同様ですが、いったい何語をベースにしているのかということです。イギリスに3歳ごろ行き、小学生になって日本に帰ってきた子は、言いたいことがあると、基本的には英語で話していました。感情的になった時もです。同時にイギリスに行っていた5歳上のお姉さんは、日本語で、話していました。この例からは、3歳前後の言語環境が大きく影響するのかと思わされました。同じような例は、いくつか見てきています。確かに我々は、日本語で物を考えています。新しく入る言語も加え、複雑な思考をしているわけです。しかし、ベースにある言語が、日本語でない場合、成長の上でどのような影響があるのかも、理解することが必要だと思います。

もちろん、日本で生活をしていくうえで、日本語の習得は必要になると思います。しかし、その子にとって、大切なことは何なのかを考えることも大切だと思います。また、母国語を習得することも必要です。親族とスムーズに話をできる機会を大切にした方がよいと思います。


2025年9月1日月曜日

100本目

 100本目の投稿です。

目標100本だったので、とりあえず目標達成ができました。

こんなことでもしないと、文章を書くこともないので、意味があるかどうかは分かりませんが、とりあえず思っていることを書き続けようかなと思います。読んでくれている人がいれば、嬉しいです。まあ、内容について、いろいろ考えることがあるでしょうが、今の現状に危機意識をもってもらえたら嬉しいです。

一番今心配しているのは、子ども達と先生の関係についてです。子ども達の権利が大切だという論調には反対する気はありません。子ども達が安全に、安心して過ごせる学校にすることを誰もが考えているはずです。でも、子ども達の権利が何よりも優先してしまうことも危険だと思います。先生たちの姿勢を批判する保護者もいると思います。その姿勢が子ども達にも影響し、先生を軽く見る子供も出てきています。また、自分の権利を主張し、先生の指示が徹底しないことも出てくるような気がします。

この様な事態は、学校という存在を危うくすると思います。指導することで改善できることが、だんだんできなくなってくることだって考えられるのではないでしょうか。今、様々なことが起き、先生達を委縮させるようなことがあると思います。もっと、先生たちが自信をもって取り組むことができるようにすることが大切だと思います。

学校って楽しい場所だと思うのです。先生にとっても、子どもにとっても。ただし、楽しい状況を作るためには、一定のルールも必要ですし、先生の威厳も必要だと思います。楽しい授業をすることができればすべて解決するというのも、今では幻想に過ぎない気がします。それに、楽しい授業をするための労力や技能がすべての先生にあるわけではありません。言ってしまえば、それができる先生の方法が少数なのではないでしょうか。

100本書きましたが、もう少し、細かいことも書きたいなと思います。


2025年8月31日日曜日

大丈夫なんでしょうか

 不祥事が起き、その対応を議会や世間が求める。教育委員会は、その圧力を現場にかけ続ける。毎度おなじみの光景が繰り広げられるわけです。基本的に、不祥事は個人の問題なはず。それが、組織の問題だとする意見が罷り通るわけです。これって、おかしいなと思います。個人の犯罪を、組織に原因があるんだからどうにかしろと発言する人たち。それを真に受けて何とか対応しようと頑張ってしまう。現場は、直接的原因でもないのに、責任があるように言われ、委縮するわけです。

さらに、いじめ対策が必要だと言われる。確かにいじめはあってはいけないと思います。つらい思いを子供にさせるのは断じて許されません。その対応は、十分にとるべきであるというのは正論だと思います。しかし、学校は、教室の中は、小さな社会でもあります。その中ですべてのトラブルをなくすことはできません。また、無くすべきではないのだと思います。子ども達は、小さな社会の中で、うまくいかなことや仲良くできないことなど、様々な場面にぶつかて行きます。その経験がとても大切なのだと思います。昔担任をしているとき、子どもに言われたことがあります。「みんな同じようにはできないでしょ。普通の友達と、特別な友達がいていいわけだから。」子ども達も、経験を積むことにより、いろいろな場面でどうすればよいかを学んでいくのだと思います。しかし、今はそういう経験よりも、トラブルを起こさないことが重視されるようになっていると思います。極端な言い方かもしれませんが、自分のパーソナルスペースに他の人がいることが問題になってしまうのではないでしょうか。1mの範囲に誰も入らない。誰も話しかけないような状況が望まれしまいそうな感じがします。

採用試験の倍率は下がり、必要な先生を補充することもできず、人員不足が4月から続いている学校もあります。その対応も教育委員会はできていません。もう、これは、教育委員会という組織の対応力を超えているわけです。

こんな状態で、学校は大丈夫なのでしょうか。対応が可能な状況にあるのでしょうか。夏休みが終わり、子ども達が学校に戻ってきています。

学校が正常な状況になるように、教育委員会も、文科省も、マスコミも考えてほしいと思います。

2025年8月28日木曜日

不祥事ねぇ

不祥事は、無くならないんですかね。

1年間に何回かは報道されます。実際に起きた自治体では大騒ぎになります。そうですよね。信頼すべき存在が子どもがらみの犯罪を起こしちゃうわけですから。その辺は、本当に困ってしまいます。

では、実際問題、どうしたらこういう事態を防ぐことができるのでしょう。これも、決め手はないですよね。いろいろ言われて、いろいろやっているわけですが、やっぱり無くならないわけです。今は、どのような場面でも、いつも手に持っているスマホで撮影することができてしまいます。ですから、誰でも、いつでも、写真やビデオをとれるという条件ができてしまっています。

性的な嗜好性も多様化しています。性的な対象がどこにあるのかなど、個人の中にあることですから、誰も理解することはできないわけです。自分の中にある性的な問題を、他人の強制によって変化させることはできないような気がします。だからといって、何をしてもよいのかということは別です。子ども達が安心て過ごすための条件としては、やはり信頼できる関係を先生と子ども達の間に作らなければなりません。それは、当然のことです。

やっちゃう人は、性的な衝動を抑えることができないのでしょうね。罪の意識も薄いのだと思います。性的な興奮が罪の意識を超えてしまうから起こるのでしょう。だからといって、それを認めることはできません。個人としての問題ですから、まず、個人の中で解決しなければならないのだと思います。もちろん、他者に被害を与えるようなことはしないということは、もちろんのことです。

不祥事を起こさないための様々な取り組みは、一定の効果はあるかもしれませんが、決定打にはならないような気がします。根本が個人的な問題なのですから、それぞれが、自分の性的嗜好と向き合わなければいけないのではないでしょうか。あまりに盗撮などは稚拙で卑劣な行為だと思います。もっと、自分との折り合いをつける方法を考えるべきです。

2025年8月24日日曜日

新人の質

 新採用の先生の質の話。でも、質がよいとか、悪いとかは言えないと思います。それぞれの経験で、新採用の先生を評価したがるのですが、その時代によって、求められていることも、できることも異なっていると思から、よい、悪いの評価はできないと思います。

ただ、演技であってもよいのですが、必要な話を聞けるかどうかは、どの時代でも必要なことだと思います。もちろん、いろいろな人が、「こうした方がいい。」とか「ああした方がいい」とか言ってくるわけで、すべてを聞いて、実行することは絶対に不可能です。ですから、話を機姿勢をもちちつつも、その中から、自分に必要なものは何なのかを考える能力は必要だと思います。実際、いろいろといわれすぎ、どうすればよいか分からなくなって、悩んでいる若手を見たこともあります。丁寧に、親切に接してくれるけど、それがつらい部分でもあると話す若手もいました。

同じ学年を組むと、最低でも1年間は、密接に付き合わなければいけません。そこは避けることができないし、避けていてはいけない部分です。ですから、そこの人間関係を維持できること、うまく仕事を教えてもらえることがまず必要な能力だと言えるでしょう。

もちろん、新採用の先生の中には、とてもセンスが良い人もいます。そういう人も何人もいました。自分でどんどん仕事を進めていく能力があるわけです。

それよりも、まず新採用の先生ができることを考え、それを推し進めていけるように、周囲が考えてあげることが大切だと思います。子ども達にとって、何十年も先生をやっている人であろと、新採用の先生であろうと、関係はありません。1年間は、その先生と過ごさなければならないわけですから。

新採用の先生の質がどうなのかと聞かれると低下しているという回答が多いかもしれません。これだけ、継続的に大量採用が続くと、中には、あまり定積がないと感じる人も出てくると思います。それをもって、質の低下ということを言うのは間違っていると思います。また、どのような新人であっても、やっていけるように、力を貸してあげることが大切だと思います。

2025年8月23日土曜日

退職教員が働くのだろうか?

 退職教員を当てにして、一時的な欠員などを補充していくという案があると、書かれていますが、本気なのでしょうか。第一に、ここまで欠員が出た状態になっているのは、退職教員の協力が得られていないからだと思います。実際、臨任の代替を非常勤で埋めることも教育委員会は認めているわけです。特に、戦力になるはずの途中退職をした教員が非常勤をやってくれるのかというと、かなり難しい気がします。退職年齢も実質的に65歳に引き上げらえています。ということは、定年退職をした教員が非常勤講師をやるとすると、65歳以上ということになります。これも問題だと思います。小学生を相手にするのに、おじいちゃん、おばあちゃんが出てくるのもね。まあ、それだけでなく、年金受給資格を得た人たちのモティベーションは、どこにあるのでしょうか。給与という形で、それなりの金額が支給されていれば、それ自体がモティベーションになるとは思います。しかし、65を過ぎて、非除菌講師として支給される給与に魅力を感じるのかが疑問です。

この様なアイディアを出している人たちは、幻想を抱いているのではないでしょうか。「やりがい」がある仕事だから、やってくれるという人がたくさんいるはずだと。確かに、80歳を過ぎた人が非常勤講師をやっているのも知っています。実際、80を過ぎた人を非常勤講師として雇用したことがあります。

でも、年齢的に、あまりにも子供とかけ離れた感覚になるのはやむを得ないと思います。もう一つ。質的な担保ができないのではないかと心配します。僕は、教える立場を離れてから15年たっています。それ以上教える立場から離れている人も多くいると思います。また、全く教えるという経験のないペーパー先生もいると思います。どちらにしろ、質的な担保がない状況でやってもらうことになります。

今の教員不測の現状を見ると、積極的に働く意思を持っている人が少ない気がすること。教えるということについてどの程度力がある人を集めることができのかが不明なこと。「やりがい」だけを前面に出しても、仕事として成り立たなくてはいけないはずです。そこまで考えて、これらの提案がされているのか、知りたいものです。

働き方に対しての意識を変えないと。

いつから学校の「働き方」は問題になったのか 働き方の問題が現場で話題になり始めたのは、2016年ごろだったと思います。 それ以前は、働き方が問われることはほとんどありませんでした。タイムカードすら存在せず、遅くまで仕事をして注意されることなど一度もなかった時代です。記録がないので...