一人一人に応じた教育の実現に向けて、文科省は様々なケースを挙げ、学校現場に対応を求めています。各自治体の教育計画も同様の方向性を示しています。 外国籍の子ども、経済的な配慮が必要な子ども、個別支援教室や情緒支援級で学ぶ子ども、発達障害やギフテッドと呼ばれる子ども、不登校やその傾向にある子ども――。どのような子どもに対しても合理的配慮は必要であり、適切に対応すべきです。その理念は、間違いなく「正しい」ものです。
しかし、なぜ今になってこの問題が強く叫ばれるようになったのでしょうか。その発端は、2022年に国連の「障害者権利委員会」から日本が受けた厳しい指摘にあります。国連は、現在の日本の個別支援学級を「分離型の教育」であり、フル・インクルーシブとはかけ離れた制度だと批判しました。
日本の個別支援学級が、世界のインクルーシブ教育の潮流と異なっているという国連の指摘は、もっともな部分があります。ただ、問題の根本は別のところにあります。それは、日本の教育制度が長年「コスパ(費用対効果)」ばかりを重視してきたという事実です。
私たちは、戦後の経済力がない時代に作られた枠組みを、未だに使い続けています。少ない教員に多種多様な業務を押し付けられる「35人学級」や「個別支援学級」のシステムは、お金を出す側からすれば、これほどコスパが良く、ありがたい仕組みはありません。そして皮肉なことに、**現場の教員たちが身を削って「それなりの成果を上げてきてしまったこと」**が、この古い制度を温存させる最大の原因になっているのかもしれません。さらに、教育予算の財源を「地方交付税交付金」という一般財源に頼っている仕組みにも問題があります。国が教育費として計算した予算であっても、各自治体の財政事情によっては全く別の事業に使われてしまうのが現状です。
「障害者差別解消法」が施行され、誰もが合理的配慮を求められる社会になりました。国として条約を批准し、社会全体で共生を目指す以上、文科省や教育現場だけがその波から逃れることは許されません。
私が危惧しているのは、十分な予算的配慮も、現場を支える「人的な保障」もないまま、理念だけが先行し、学校にさらなる圧力がかかってくる未来です。このままでは現場が破綻してしまうのではないかと、心配でなりません。














































